お好み焼の歴史

お好み焼の起源は、中国の喫茶文化とともに伝えられた「餅(ビン、ビェン)」と言われるお茶菓子が起源と言われており、安土桃山時代の千利休が作らせていた「麩の焼き(ふのやき)」に形を変えてきたと考えられています。

その後、麩の焼きを起源として江戸末期から明治にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼(すけそうやき)」が、明治時代には「もんじゃ焼き」「どんどん焼き」が生まれました。

元は関東が中心だった粉モノ文化ですが、1923年(大正12年)の関東大震災の際に被災された人々が全国へ散り各地域で根付き、その地域の特色あるお好み焼へと発展していったと考えられています。

大正から昭和にかけてウスターソースを使用する「もんじゃ焼き」や「一銭洋食」が食料不足を補う方法として一般的になり、関西では「混ぜ焼き」を特徴とした関西風お好み焼きが定着しました。

広島では、終戦後「一銭洋食」を元に、ねぎをキャベツに置き換えたり、「もやし」や「そば」などの具材追加で、乗せ焼きが特徴の広島風お好み焼きが誕生しました。

お好み焼のソースも同時期に誕生し、元々日本酒の生産地であった広島では酢の製造も盛んで、その延長でウスターソースも製造していました。当初はお好み焼にはウスターソースをかけていましたが、サラサラなのでお好み焼にかけてもすぐ流れ落ちてしまうため、新たに開発されたのが粘度の高い「お好み焼専用ソース」でした。

戦後、焼け野原になった広島で比較的早くに営業をしていたお好み焼屋は、戦争により働き手である男性が失った女性が店を営業することが多かったと言われています。そのため、屋号に「〇〇ちゃん」などの呼称が用いられることが一般的となり、その名残は今も広島県全域に残っています。

現在では、チェーン店や居酒屋風、高級店などもありバラエティーに富んだメニューが出てきました。

しかしお好み焼の原点は、小さなカウンターの前で汗をきながら、いつもの笑顔で迎えてくれるおばちゃんと他愛のない話をする、そんな姿が広島の人々のお好み焼のカタチなのかもしれません。

 

三原焼きの歴史

三原焼きのお店一覧